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  • 鴨田 信

最高の贈り物… 永遠のいのち

更新日:2020年2月1日


最高の贈り物… 永遠のいのち

「永遠のいのちなんてあるわけない」と言われる前に、少し考えてみてください。わたしたちが現在息をしているのも、この文章を読まれているのも、またいずれ息を引き取らなければならないことも現実であるように、聖書によると、わたしたちが永遠をどこかで過ごすこともまた事実なのです。

2010年のデータに基づく日本人の平均寿命は男性が79.64歳で、女性が86.39歳です。(厚生労働省大臣官房統計情報部、表5「平均寿命の国際比較」参照)医療の進歩で、平均寿命がどれだけ伸びても、人はみないずれ死ななければなりません。それでは、死んだらどうなるのでしょう。考えたことはありますか。

「死んだら全ておしまい」と考える人の人生は、あきらめか、自己中心なものとなるでしょう。死んだら全ておしまいと考えているので、「楽しみや快楽」を人生の目的にするでしょう。「天国に行けっこない、地獄で結構」と粋がる人は地獄についてよく知らないか、知りたくないのではないでしょうか。「わたしは別に悪いこともしていないし、一生懸命、人のためになるようなことをしているから、天国に行ける」と信じている人は善行を天国への資格と考えているわけです。この考えが正しいとしたら、どの程度まで善行を積めばよいのでしょうか。よく考えてゆくと、疑問点がたくさん出てきます。

あなたは天国に行ける確信がありますか? 永遠のいのちを持っていますか? この質問は今生きているすべての人にとって重要な質問ではないでしょうか。 多くの日本人は、天国はあるのかさえ確信を持っていません。そして、天国はあると思う人は、どんな人でも死ねば天国に行くと考えているようです。もし、どんな人でも天国へいけるのならば、天国も地上と同じように犯罪や事件であふれていることでしょう。人は地獄へ落ちるかもしれないと言う可能性については、あえて考えないようする傾向があります。人は地獄が恐ろしい、苦しい、行きたくないところだと感じているからです。生活や仕事で忙しい、宗教は面倒だ、レクレーションが楽しいなどの理由で自分の内なる命の必要について考えない人が非常に多いのです。人が死を恐れる理由は、自分が死後にどこへ行くのか分からないことにあります。この問題を解決しなければ、死の恐怖はなくなりません。

イエス・キリストが語られた話の一つに、金持ちでぜいたくな生活をしていた人と、貧しい信仰者ラザロという人の死後の生活が描かれています。ラザロは、天使に迎えられて、アブラハムのふところ(パラダイス)に住むことができました。しかし、富める自分勝手な生活をしていた人は、黄泉(よみ)にいて燃える火の中で苦しみのうちに、ラザロに一滴の水を求めているあわれな姿が述べられています。しかも、その一滴の水すら口にすることができないのです。(ルカ16:19-31)

人はどのように信じても良い自由があります。しかし、この問題に真剣に向き合うことは必要です。聖書はこの問題に対して十分に検証し、天国への希望について教えています。

永遠のいのちは、神からの最高の贈り物として無代価で与えられるものです。それを与えられた人には天国が約束されています。 (ヨハネ14:1-3)私たちに特別に価値があるから、多く労したからといって与えられるものではありません。(エペソ2:8; ローマ6:23) 聖書はまた、人はみな、考えにおいて、行いにおいて、罪を犯している罪人なので、自分で自分を救うことができないですし(テトス3:5; エペソ2:9)、せっかくの贈り物も受けられないというのです。(ローマ3:10-12、23)なぜなら、神は、憐れみ深い愛の方ですが、正しい方でもあるからです。神は、わたしたち罪人の罪を赦すことを望まれたとしても、罰しなければ、神の正しさは全うされません。これは解決の困難な問題です。しかし、神はこの問題を、イエス・キリストによって解決されました。(1ペテロ2:19-25) イエス・キリストは永遠の実在者である神が、約二千年前にユダヤのベツレヘムで人としてお生まれになった方です。つまり、神であり人である唯一の方です。(ヨハネ1:1、14;1テモテ3:16; ローマ8:3、4; ピリピ2:5-8) このイエスが地上に来られる約七百年も以前の預言者イザヤという人は言いました。「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かっていった。主はわれわれすべてのものの不義を、彼の上におかれた。」(イザヤ書53:6) 私たちは自分勝手な生活をして多くの罪を犯しました。しかし、神は罪のないキリストの上に、わたしたちの罪を置いてくださったというのです。これが十字架の奥義なのです。この奥義を知った上で、永遠のいのちへの鍵は信仰であることを知ってください。信仰とは、ここでは単なる知識として知っているとか、一時的な信仰を意味しておりません。ここでいう信仰とは、イエス・キリストが自分の罪の身代わりとなって、十字架にかかり、死なれ、葬られ、そしてよみがえられた、唯一の救い主と信じることです。(1ヨハネ5:12) そうすれば、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と約束されたように、あなたは永遠のいのちを与えられます。(ヨハネ3:36) そして、天国に行く日まで、この地上でも生きる目的を明確にもって、喜んで人生を送る事がおできになります。

このメッセージを読んで、あなたがキリストを信じる決心をされるなら、自分の言葉で次のようなお祈りをしてください。聖書は「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」と教えています。(ローマ10:10)

「主よ、わたしは罪人であることが分かりました。どんなに良い生き方をしても自分を救うことができません。あなたがわたしを愛してくださり、イエス様をわたしの身代わりに死ぬためにお遣わしになったことを信じます。彼が死後三日目によみがえったことも信じ、罪を悔い改めます。そして、自分本意な歩みを変え、イエス様をわたしの救い主として受け入れます。主よ、わたしの罪を赦してくださってありがとうございます。イエス様の御名を通してお祈りします。アーメン。」




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