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  • 鴨田 信

神の国への道 (マタイ6:25-34 )

更新日:2020年2月1日

  • 神の国への道 (マタイ6:25-34 )

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6:33、新改訳)

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(マルコの福音書1:15)というイエス・キリストの御言葉があります。ここで、「神の国」という言葉を定義します。ギリシャ語「セオス」は「神」という日本語に訳されています。聖書では神は天地万物を創造した全能の神を指します。この神は、①意思決定を行う父なる神、②人間となられた子なる神(イエス・キリスト)、③どこにでもいて良い働きを行う聖霊なる神、の三つの人格が一人の神として存在する、三位一体の神です。「国」とはギリシャ語の「バシライア」から訳されていて、本来は「王国」又は、「支配」と訳されます。イエスは、この三位一体の全能なる神の王国が迫ってきたので、悔い改めて福音を信じるように、と説きました。「悔い改めて福音を信じる」とはどういうことかについてはこの話の後半で説明をいたします。まず、神の国に属する人にはどのような利点があるのかを説明したいと思います。

神の国に属する人は現実的な生活のことで思いわずらわなくて良いことを教えられています。

現実的な生活のことで思いわずらってはいませんか?思いわずらっても寿命を延ばすことは出来ません。しかし、神に頼って生活する方法があります。イエス・キリストはマタイ福音書6章25節~27節でこのように教えました。

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

これは実際にあった出来事です。ある日、私の家のベランダにいろいろな種類の木の実がたくさん散らばっていました。近くの公園に苔桃の木があって、その実は鳥のえさになっています。何の木の実か分からないけれども小さいものから大きいものまでありました。鳥たちが採ってきた木の実を私の家のベランダで食べていたのです。私は木の実の多さに驚きました。

私たちの命について考えてみると、仮に思いわずらっても、寿命を延ばすことは出来ません。むしろ、医学は心配することは健康を害することを突き止めました。イエスは「思いわずらうことを止めましょう。」(25節)と教えられました。「思いわずらう、心配する」を意味するギリシャ語の「メリムナオ」は「命令法の不定過去(またはアオリスト)時制で、否定詞と共に用いられているので、「思いわずらうことを止めなさい」という意味になります。つまり、イエスはすでに思い煩っている人々に語りかけていたことを示しています。その人々に対して、イエスは「思いわずらうことを止めなさい」と言っています。

神は自然の秩序の中で、人や他の動物に必要なものを備えてくださいます。神はあなたに良くすることが出来る方です。マタイの福音書6章28節~30節を読んでみましょう。

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

28節の聖句に直説法の現在時制が使われていることから、イエスの話を聞いている人々は現に思いわずらっていたことが分かります。イエスは彼らに対して「ああ、信仰の薄い者たちよ。」(30節)と言われています。これはギリシャ語で「オリゴピストス」すなわち、「小さい信仰の者たちよ!」という意味ですので、彼らに「信仰が無い」と言われているのではないことが分かります。

さらにイエスは「思いわずらうな。」と繰り返されています。その根拠は、神はあなたがたに、野の花以上に良くしてくださる事実にあります。また、神はあなた方に何が必要なのかを良くご存知で備えてくださるからです。

マタイの福音書6章31節~32節を読んでみましょう。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

目に見えない神を信仰しないと、人は食物や衣類など目に見えるものに夢中になってしまいます。しかし、神を信じ、神の国に属する人は違うものを求めます。

神の国に属する人は神の国と神の義を最優先に求め続けるべきです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい」とは前向きな対応を求める命令です。求めるという行為は、神への祈りです。祈りは神との対話です。私達はイエス・キリストを救い主として信じていれば、いつでもどこでも、父なる神に個人的に祈ることが出来ます。教会に集まれば、礼拝の中で同じ信仰をもつ仲間と心を合わせて共に祈ることが出来ます。ここで、「求め」と訳されているギリシャ語は「ゼテオ」で、「探求する、努力して見出そうとする」という意味です。この語は命令法の現在時制であるので、「求めることを継続しなさい」という意味です。祈りの生活を続けるためには努力が必要です。この命令に従う人には、次の約束が与えられます。

第1の約束は「神の国と神の義が与えられます」というものです。神の国とは神が王であり、神を信じる人々を国民とする王国です。それは人が決めた国境、または支配領域を越えて、広がってきました。神の国に属する人々は次第に増え、その人々が世界中でたくさんの教会を形成していきます。神の義は聖書の御言葉を学び、実践する信仰者たちによって実現されます。不況な世の中、困難な時代にあっても、互いに愛し合い、助け合う人々が増えてゆきます。聖書が教える真理を守り、広め、さらに次の世代に引き継いでゆくことは教会の大切な役目なのです。

第2の約束は「現実的な生活で必要とされているすべての物が添えて与えられます」というものです。最優先にされるべき霊的な祝福が与えられ、現実的な生活で必要なものが全て与えられるならば、他に何を求める必要がありますか?内面の必要も外面の必要も満たされているのでしたら、他に何も必要ありません。ですから、思いわずらうことはいらなくなります。

マタイ福音書6章33節~34節を読んでみましょう。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

マタイ福音書6章33節を新改訳聖書でもう一度読んでみましょう。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

二つの日本語訳を合わせて考えると、ここで教えられているキリストの約束は次のようになります。

神の国と神の義を第一に求めるならば、その二つが与えられるばかりか、現実的な生活で必要なものが全て添えて与えられるというのです。

結論:

読者の皆様には神の国の一員となることを希望していただくことをお勧めします。そして、神の国の一員である方は思い煩うことはやめ、神の国と神の義を第一に求め続けることをお勧めします。

私たちは神の恵みによって、両親を通じてこの世に生を受けました。そして、今まで生かされてきました。それは一重に神の恵みによります。私たちの多くは、両親をはじめ、親類、友達、学校の先生たち、近所に住まれる方々に見守られて育ってきました。そして、他の誰よりも、神は私たちをいつも愛して見守っておられます。

しかし、私たち人間と神との間にはひとつの問題があります。それは、目に見えない神を認めることが出来ないために、神を無視してしまうことです。その結果、全ての事柄を自分自身の判断にゆだねて生活してしまいます。私たちの行いはたとえ法律や社会通念に照らして、正当であり、とがめられることがなくとも、神のみ言葉に照らしたときに、不当であり、とがめられることがあります。これは神が言う「罪」なのです。たった一つの罪を犯しても、私たちは神の目から見て「罪びと」と呼ばれ、罪びとは裁かれなくてはならないと、聖書は言います。罪を赦されないまま、この世を去る人々にはハデスと呼ばれる懲らしめの場所が用意されています。しかし、愛と哀れみに富む神は、私たち人類の罪の支払う報酬「死」をご自分の身に負われて、清算なさいました。この清算を実行した方はイエス・キリストです。これを聖書の言葉で「あがない」と言います。あがないを受けるためには、私たち一人ひとりが神に対して罪を犯したことを認め、心から反省をします。これを悔い改めといいます。そして、イエスが十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえって死に打ち勝ったことを信じます。これを、福音を信じると言います。このように、悔い改めて福音を信じる人は神の子とされ、神の国の一員となります。この意味でイエス・キリストが神の国への道であると言えます。皆様もイエス・キリストをご自分の救い主、神様として信じられませんか?イエスを信じている皆様は思い煩いをやめ、神の国と神の義を第一に求め続けましょう。(聖書の御言葉は特筆がなければ口語訳聖書より引用しました。)



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